昭和四十三年六月五日 朝の御理解


御理解九十九節 無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真無ければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。


 「学問があっても真が無ければ人は助からぬ」これを、人が助からんということは、自分が助からんという〈ことでもありま〉すね。学問があっても真が無ければ、自分自身の助かりはない。勿論人の助かるはずは尚更無い。
 此方は無学でも皆おかげを受けておると、無学でも教祖様ご自身助かっておられる。おかげを受けておられる。しかも、皆おかげを受けておる。皆、人が助かっておる。
 昨日、ある所から、月に何回か参って見えるんですけども、息子さんが嫁さんを、迎えます。東京に居られます。東京で貰う訳ですけども、次々と、大変よい息子さんらしいですけども、なかなか、帯に短かし、襷に長がしという訳で、神様にお願いに見えたわけです。それで、お許しを頂いてから、興信所に頼んで、調査をして参りました。
 ところが、高校におてて居られますけども、調べたところによると、成績が丁度中ぐらいのところに居られます。そこでその、まぁ、頭があんまりよくないということである。本人達は、まぁ気に入った訳ですけども、問題はその、頭が悪いというので、見合わせようということになった。
 皆さん、どういう風に感じられますですか。なるほど、頭が良うて、器量が良うて、そして心がよけりゃ、こりゃ三拍子揃うてこれより有難いことはないのですけどね。けれども、まあ器量は気に入ったけれども、頭があんまりよくないというので、縁談が成立しないような。だから、次の器量も良し、頭も良かつをお願いしますということらしいんですね。
 私は申しました。そういうことを言うことはね。神様に対しても御無礼になる。頭が悪いから。そして、大体あなた方の願いというかね、目的はどこにあるのですか。頭のよい嫁さんをもろうて、頭の良い言わば、子供を得るために、それが目的ですか。それとも、本当に幸せが目的ですか。頭がよければ幸せ、学問を身につけておれば幸せ、と言うことでは、幸せとは全然関係がない。
 頭が良い、悪いとか。無学でも此の方は人が助かっておる。無学でも自身が助かっておる、救われておる。頭は良いけれども、学者が身を食うということがある。と言う風に〈仰っておられる。〉これは学者だけではない。頭の悪い人でも、不幸せな人はある。頭が悪いから、心が良いとも限らない。 けれども、その頭が悪いからと言うて、軽く見るようなことでは、神様に対して御無礼。それを私は、無理にそれを貰いなさいと言う訳では無いけれども、考え方が間違い。だから、目指すところ、目的はどこにあるか。目的は、言わば、息子たち夫婦が本当の幸せの生活ができるということ。幸せになるということ。
 ですから、幸せのなるということを目的に、もう一遍考え直しなさったらどうですか。と言うて申しましたことです。
 これは、一人一人、器量が良い、悪いがあるように、やはり頭もそうである。頭の良い人もありゃ、頭の悪い人も〈ある〉。一つのことを、人が一遍で覚えるのを、十遍も二十っ遍も聞いたり、習うたりしなければ分からない人もある。けれども、幸せとは、全然関係がない。
 お互い、信心させて頂いたら、どうでも、その目指すところが幸せ〔でなければならない〕。
 昨夜、お風呂に入ってから、昨日は久差富先生と二人でしたから、二人でお話したことですけれども、最近、金光教でもそういう雰囲気が非常に強い。これは、大変、言うならば、私が言えば、困った事だと、こう思う。と言うのは、宗教的情操というような言葉が使われておる。宗教的情操を身につけるということ。けれども、どんなに考えても、そういう言葉を宗教人が使うという事はおかしいですね。と私は言うわけです。
 宗教をしておるもの、信心を頂いておるものが、信心を頂いての、信心を頂いておる者の情操でなからなければ、宗教的、情操ではない。宗教という、信心をしておるものの情操というのがある。これは信心を頂かなければできない。
 例えば、一つの修養団体か何かであるならば、宗教的情操を身につけるということが言えるでしょうけれども、私共自身が信心をしておるのであり、宗教しておるのであるから、宗教的情操という事はおかしい。
 宗教そのものが、信心そのものが、自ずと自分の心の中に情操が培われてくる、養われてくるというのであるから、宗教的情操は受けるけれども、宗教を頂いておる者の情操と言うものは、受け入れられないという感じがある。
 宗教を頂いておる者の情操というのは、私は結局、生神金光大神天地金乃神一心に願え。お道の信心させて頂くものは生神金光大神を唱え天地金乃親神様にお縋りして、どうぞ私の心に、どんな場合でも和らぎの心、賀びの心を頂かせて下さい。しかもそれは、今月今日、一刻も揺るがせにできない思いで、日々刻々を、自分の心に和らぎ賀ぶ心を頂かせて下さいと言うて願う。
 しかも又、そこに焦点をおいて、信心の稽古をする。ですから、自ずと、そこに、和賀心という、いわゆる和らぎ賀ぶ心というのが、その人の情操になってくる。ですから、あれも有難い、これも有難い。あれを見ても有難い、これを聞いても有難い。
 その、有難いというのが、お互いの情操でなからなければならない。
 宗教をもっておるものは、いや、金光様の御信心をさせて頂く者は、こうでなからなければならない。ああでなからなければならない。内容には、賀びの心もないのに、こうなからなければならないと言うて有難そうにしておらねばならないというようなのは、これは間違いである。それはもう、有難いから有難いという雰囲気というものが出てくるのである。
 だから、例えばあの、キリスト教だって、仏教だってそうである。
 そもそもの始まりの頃は、やはり信心の匂いというか、所謂信心の情操というものが身について、しかも真に有難いという心がどういう難儀なことにあっても、難儀を少しも感じんで有難い有難いで受けて行けると言ったのがあった証拠に、教祖、宗祖と言った頃には只奇跡というものが至る所で起こった。所謂不思議なおかげがなんぼでも頂かれた。
 四百年位前には、サビエルですか、の語る奇跡なんかというのがあったように、とても普通では考えられないような奇跡が起こった。最近では、そういう奇跡的な霊験談、おかげの話をすることは、どうもおかしいと、低級だと言ったような風潮がありましてね。金光様の御信心にも宗教的情操なら良いけれども、宗教の情操は排斥されると言ったような向きがある。これはおかしなことだと思う。 宗教的情操では助からん。宗教的情操では奇跡は起こらない。所謂霊験は頂けない。宗教するものは宗教そのものが、その宗教の教えによってその人が救われ、助かり、そして、お道の信心で結論すると真に有難いという心、所謂和賀心、和らぎ、賀ぶ心が自ずと強ようなってくる。その真に有難いという心におかげがある。そのおかげは、所謂霊験である。奇跡である。どんなに考えても不思議と思わなければおられないほどのおかげである。
 ですから、その仏教、キリスト教に例をとるなら、牧師であり、または僧侶たちがです、そういう宗教の情操というものがだんだん欠けて来て、今日の御理解から言うといろいろ勉強して、学問をして、宗教はどういうものかということは分かったけれども、自分の身に心に頂くということが出来ない。所謂、真に有難いというような心が無い。ですから、自分も助からなければ、人も助からない。助からんから、ここに助かるところがあったりするとそれを低級視する向きがある。
 金光様の御信心でもそういうものを最近感ずる。
 宗教的情操を身につけていけ。宗教そのものを自分の情操にして行けれる信心が根本にあらなければいけない。ですから、「信心して霊験のあるを不思議とは言うまじきものぞ」とおっしゃるように、「信心して霊験の無きときは、これぞ不思議なことぞ」。自分の宗教的情操が、身にはついていきよるけれども、宗教の情操ではないから、おかげが受けられんのだということをわからなきゃいけんのだけれども、そこを分からない。霊験が起こらんのは、もう当たり前のようになってしまっている。これでは、学問があってもなかっても、宗教的情操が身についていった分では詰まらん。それは、学問があってもなかっても、宗教情操があって、心が豊かに、信心とは有難くならせて頂く稽古だというように、心がだんだん有難くなってくるということ。そこには、何を見ても聞いても、それを有難く受けれれる心の状態。それを和賀心とこういう訳ですが、その和賀心が育って行く。ですから、人が腹が立っているときでも、人が情けないといって涙をこぼしているときにもにこにこしておれれる。又は、有難い、勿体ないと言うておれれる。ですから、信心の無い者、信心の薄いものから見ると不思議に思う。
 それを軽視する向き、けれども、信心の目指しと言うのはそれ何です。
 宗教的情操を身につけなければならないというようなことを言い出すのも、やはり学問を、言わば、信心を教学的に只身につけていこうとする人たちの言うことである。
 所謂、問題を問題として、その信心を進めて行けなんていうような事になってくる。問題を問題にせずに、それを、問題を検討すると言ったようなことじゃなくて、その問題そのものがおかげであると、問題そのものが、即おかげである。この問題があったおかげで、この問題のおかげで信心が分かった。この問題のおかげで、こういう問題のなかでも有難いという心が開けてきた。だからもう、問題じゃない。
 昨日、森部の高山さんがお参りしてから言われるのに、どんなに考えても不思議だという訳ですね。先日から、宅祭りが、あちら、ご承知のようにご主人が体が悪くて〔休んでおられます〕。ところが、宅祭りを仕えるという前日から、シャンと元気になって、立派にお祭りを仕えさせて頂いた。その翌日から、又具合が悪くなった。それでお礼に出てきた。
 先生、これも又不思議なことですけども、お礼のお届けをさして頂くと、すぐ又悪くなる。今度もそうでした。昨日あんなにお礼お届けして帰りましたら、もう元の状態に返ってしまって悪かった。 そういうことを、もう何年間とくり返しておるうちに、本当にこれは神様のご都合によることだと分からして頂いたら、「先生、めぐりというものは無かですね。あるのは神愛だけですね。」と言われる。高山さんそうなんですよ。例えて言うならば、そうして体が途端に悪くなるというようなことでもです。神愛と実感出来れるところにです。ね、どうしたことじゃろうか。と言うのではなくて、それが、神愛として頂けるときにそれが有り難うなってくる。
 宗教的情操などでは、とてもそういうことは分からない。教えが生き生きとしてくるから、今まではめぐりのせいと思うとったけれども、これはめぐりじゃない。それは、神愛だと分かった。
 難儀な問題。それを困ったことだ、困ったことだ。そういう、因縁なら因縁があってこういう難儀なことになっておるとばっかり思うておったけれども、それは、みんな神様の愛の心であったと、してみるとめぐりというのは無いですね。と言うことである。
 私は、そういうようなものが、最近の金光教の中にもだんだん薄くなっていきよるような気がする。結局、問題というのは問題ではなくて神愛だと分かる。又、神愛だと言い、思わなければおられないほどのおかげにしていかなければならん。
 そういうことはですね。頭で考えるもんじゃない。自分の心に頂いていくものである。そういうようなものを養うて行くことが信心。
 昨夜の、ご理解の中に聞いてもろうたんですけどね。お互いが、信心に修行は付き物。それは、結局一人ひそかに信心せよと仰るがね、一人ひそかに信心せよ。一人ひそかに修行せよ。一人ひそかに御用せよ。一人ひそかにお供えをせよ。と言うことに繋がるんです。
 なぜ密かでなけりゃいけないか。密かでないと有難いというものが頂けないのだ、不思議に。例えばね、それは有難いものが頂けんでもおかげは受けますよ。お参りをしよる。いうならこれを人見せ信心という。私はこげな修行しよる。
 先日も、ある方があるお供えをわざわざ奥のほうまで持ってきた。とにかく私に見せなければ気がすまない。だからその、これは一つのお供えでも人に見せても見せなくても、これは一つの還元ですからおかげは受けます。けれども、自分の心の中には有難いものは、まず頂けないでしょうね。
 修行でもそうだ。一人密かに信心、だれ-も〔知られず〕、神様だけがご承知なんだ。神様だけがご承知と言ったような修行させて頂かんとね、ありがたいものが頂けん。
 ですから、今日の御理解から頂きますと、頭がよいとか、悪いとか関係がないでしょう。と言うて、わざわざ隠しきらなきゃならんということじゃないですよね。それを極秘にしとかなけりゃならんということではない。それを只、見せびらかすというようなことであってはならないということ。
 信心の目的が、有難くならして頂く稽古ですから、私共が、誰も知らんでも一人密かに修行させてもらうとね、不思議に、こちらの心に通うて来るものは何とはなしに有難い心である。私はこんな修行しよるとにということなんかは、言うたら、もう有難いものが消えて行く。一人密かに修行さしてもらう。その有難いものを味わうのが信心の値打ちなんだ。それが、溜まりたまって真に有難いということになってくるのです。
 だから、そこん所をですね。分からして頂くということは、頭の善し悪しには関わりがないです。そんなら、真に有難いという心を開く事が、私は幸せだと思っております。人間の幸せというのは、金でもない、物でもない。財産では尚更ない。どのような中にあっても、自分の中にありがたいなぁ。そこに病人があっても、難儀な問題があっても、その中から神愛を悟らしてもらう。「有難いなぁ」と思えたら、そこに本当の幸せがある。それを宗教から生まれてくる情操だとこう、私は言う。
 それにはね、一人密かに信心させてもらう。そしてここに一つ、付け加えておかなければならないことはね。一人密かに信心せよと。所がありがたいものが湧かない。一人密かにお供えもしよる。けれども有難くならない。これは、その修行なら修行の一心が足らんのです。一心の修行がないから有難いものが頂けないのです。ですから、今しておるその修行をもう少し一心をもって、その修行に取り組んだら、絶対有難くなるです。お供え一つでも、誰が知らんでも言い、一人密かにお供えしたばってん有難くなれなかったというなら、それはま-だ、あなたの真心が欠けておるです。
 ですから、一つの、庭の塵葉でもと仰るようにね、どんな些細なものにでも、思いを込め真心を込めさせて頂くなら、必ず、有難いものがお返しにかえってくるです。真心を込めてさしてもろうたらですね。すべてのことに真心込めてさしてもろうたら。
 人でも同じです。自分自身が有り難うなるのです。それを受けたものは尚更有難い。真心を神様がい受けなさる。真心をこちらがかけさしてもらう。神様も喜んでくださり、私共も有難くなる。真心が欠けるところにありがたくなれない。
 修行でも、まだ一心の修行がでけんから有難くなれない。
 だから、中途半端ではいけないことを感ずる。ここのところを、一人密かに信心せよ、一人密かに修行せよ、一人密かに御用せよ、一人密かにお供えをせよ。それは極秘にしなければならない。だから、夜の夜中に、誰も知らないときにしなければならないという意味じゃ、更々ないですから、誤解しないでください。人に見せびらかすような信心ではならないということ。
 宗教的情操を強要するというかね、宗教的情操を身につけていけというのは、これは人見世です。信心しようけんこんな風にしなけりゃならん。ここは、こうあらなければならん。といったようなものは、これは人見せに、金光様の信心しよればあげんでなからなきゃいかんといったようなのは、形だけだから人見せです。それでは有難いものが内容に頂ける筈もない、霊験がそれに伴う筈もない。 けども、宗教によってです、教えによって自分が救われ、助かって、宗教的なものではなくて、宗教を頂いておる者だけしか許されないところの有難い心とか、雰囲気というものが、そのまま宗教の情操であるから、これなら、自分も助かり人も助かって行くのである。
 お互い、一つ宗教の情操をね、情操が自ずと自分のものになってくるようなおかげを頂かなければならない。そこには、頭がいいとか、悪いとかいうことには関係がない。器量が良いとか悪いとかいうことにも関係がない。信心はとにかく有難くならせて頂く稽古。どのような場合にでも有難くならせて頂く稽古。そこに幸せがある。お互いの信心の目指しと言うものが、お金を儲けることか、病気が治ることか、これは願いが違う。その問題、その病気、または経済、様々な難儀を通して、本当に幸せになりたいというのが目的でなければならない。
 同じ結婚の問題でも、せっかく気に入ったのに、神様のお許しも頂いたのに、ただ、頭があんまり良くないというので破談になる。こんな馬鹿げたことはないですけども、それではね、神様に対して御無礼になる。
 学問だけのことじゃありません。ですから、結局目的が違うからそういうことになってくる。頭の良い子を、嫁さんを貰うて、頭の良い子を頂こうというような考え。それで幸せになるように思うておる。それでは幸せになれない。むしろ、学者が身を食うというような結果にしかならない。
 それよりも、頭は良くないですけども、器量も良くないですけども、心が神様のような人じゃ、仏様のような人じゃというのであって、宗教の情操、真に有難いというような心がいよいよ頂かれる。その有難いという情操の中に生活をするということが、信心生活。そういう信心生活を目指してお互いが信心を稽古していかなければいけない。
 これは、私は決して、学問を排斥するというのではありません。頭の良い人はいよいよ勉強して、ただ、学が身を食うというようなことになってはならないということ。なぜ学が身を食うか。頭が良いもんだから、頭が走るから、すぐ算盤を持つ。すぐ計算をする。そして、取り越し苦労をする。先のことまで心配をする。頭が良いから、先のことまでちゃ-んと頭に浮かんでくる。これでは、頭がよいのが身を食うておるのであり、学が身を食うておるようなものです。
 先のことは神様にお任せ。もう、任せ切れるところに安心もあれば、喜びもある。だから、学がある上に学問がありがたい意味合いにおいて使われる。心がいよいよ有難くなっていくというなら、もういよいよ鬼に金棒である。だから、学問をしたら有難くなれないという意味ではない。ここでも、そういう風には説いておられない。
 けれども、やっぱり頭の善し悪しがある。いくら教えても分からない人もあるけれども、信心で有難くなるという事には関係はない。人間が幸せになっていくということにおいては、全然関係がない。お互いが、一生を過ごさしてもらうのに、幸せな一生でありたいと願うなら、器量や、頭で選んではならない。
 とにかく、目指しが、目的が間違うとそういう結果にもなりかねないのです。信心させて頂いて、今日申しますように、一つの修行でも、御用でも、一人密かに信心させて頂いて、そこから生まれてくるところの信心の喜び。それが信心の心情であり、それが情操になってくる。それが、霊験を生む。そういう真に有難いという心がおかげの受け物である。そういう受け物は、頭が良くても、悪くても誰でも頂けるのだと。
 大臣か、大将かというのには頭が良くなければ出来んかもしれません。力量がなければ出来んかも知れませんけれども、有難いということは誰でもなれる。だから、お互いが日本一有難い私にならせていただこうという願いをもっても、おかしなことではない。私はそう思う。頭は悪か。けれども、日本一有難い私にならせて頂こうという願いはもっておる。それに近付いていくことは誰でもできる。私のような頭の悪いものでもできる。
 すべてをその有難いの中に溶かして行ける。自分も助かって行ける、人も助かって行けれるようなおかげが頂かれる。どうぞ。